時報「ひじり」157

ざら紙に輪転機で印刷した寺報創刊号は、昭和五十八年(1983年)4月25日。

 住職就任当初から、勉学はもちろん、実践としては、その当時革新的な市民活動をしておられる住職の所に学びに日本全国行きました。原発反対運動やいろんな市民運動をされておられるお寺さん、地域に密着したお寺の活動や若者の集まるお寺等に出かけました。そうしたことから地元では、子供文庫活動を始めるきっかけにもなりました。

 

 このような活動と共に、常に現実と自己のエゴの矛盾から、「自分とは何か?」「仏とは何か?」を問い続けてきました。その原動力で、仏法に対する勉学だけは、今も続いています。

 

 またお寺の葬儀や法務を通じて、遠方や新しい方々との縁もできました。そして、檀信徒の方々には、法要などを通しての財政面はもちろん、いろんなことでお寺の維持と活動を支えて下さいました。法要に関してお手伝いしてくださる総代さんや婦人会の方々。この寺報の折り込や発送を三十年近く手伝って下さっている方。お参り中に励ましの声をかけて下さる方。影からもいろんな方が背中を押してくださっています。若い頃には、いろんなご無礼や腹立たしいこともあったことでしょう。よくお付き合いして頂いた事、本当に感謝で一杯です。しかしその反面、先祖供養だけの檀信徒と信仰との関係も悩み続けています。

 多くの方々に支えられていたにも関わらず、私自身きちんとした仏道を歩んできたかというと、疑問と言わざるおえません。仏道を歩みながら、パートナー、親子、兄弟、いろんな面で軋轢を起してきました。檀信徒との信仰心の問題や家庭での苦しみを救ってくれたのは、やはり仏教の教えでした。

 現在も大学院で仏教を学んでいますが、私の学びは学問としての仏教でもなく、人びとの苦しさの解放からかけ離れない仏教の問いかけ、実践を通した学びです。頭で考える思考だけではなく、やはり実践を通しての仏道だと思います。

 

自己矛盾だらけの私が今生きていけるのも、仏法に学び、仏教を信じているからです。

苦しみを見ず、欲望や快楽で誤魔化すのではなく、本当の自分を問い、人生の意味や生まれて死ぬとはどういう意味かという生死の問題を一緒に考えませんか?

旅行、グルメ、車等だけで楽しく暮らせばよい、でも目の前には面倒くさい死が迫っています。その生死の問題という秘密にふれないことは、浅い誤魔化しの生き方ではないでしょうか?

 

面倒臭いことですが、死んでいくのを乗り越える智慧を考えませんか?

生死の問題を乗り越える智慧を考えませんか?

死に対してどういう手段があるのかを考えませんか?

現実生活の中で、永遠の命を感得しませんか?

死なない工夫をしませんか?

長生きの練習をしませんか?

そして、死への恐怖の解決の工夫をし、苦しみから解放されませんか?

 

 

私が、今までに檀信徒の皆様方にお世話になり、恩返しができるのは、自分が苦しみから救われていることを感じる、仏法を伝えることしかありません。信仰というつながり(サンガ)ができた喜びが私の今の最大の嬉しさ、生きがいなのです。

仏教は智慧と慈悲です。どなたも、誰かの役に立ちたいと思っておられると思います。家族や友達、社会。誰かの為に慈悲を持って穏やかに過ごしたいと思っている方々はたくさんおられると思います。誰かの役に立つことが、自分の生きがいになることにつながるということもあります。

私が正しくそうです。

 

どうか一緒に仏道を歩みませんか?