こちらでは、東大阪にある「大念寺」にて開催される即心念仏会の瞑想会の開催についてご案内しております。
念仏会や瞑想会を通して、おひとりおひとりの毎日が活きる智慧で満たされますように。
今ある意識、自意識を解体すれば、欲望を追いかける所有にしか自己の存在根拠がないと思っていることから
目覚め、今ある現実、世界がフィクション、錯覚、バーチャルだと気づき、新たな自己が発動されることでしょう。
マインドフルネスを始めたから、瞑想やお念仏の体験をしたからといって、苦しさがなくなるわけではありません。
お釈迦様が、「私が苦しい時、苦しみを消すのではなく、私を消すのだ」とおっしゃっいました。
その境地は、悩むことを怖れず、逃げない人、問題を正面から引き受けるようになる人です。
「仏教は苦をなくすことではなく、正しく苦しむこと、あるいは苦をちゃんと見ることを助けてくれるもの」
藤田一照師の言葉『仏教3.0を哲学する』より
マインドフルネスを通して、このような力を発揮することは出来るはずです。
ご参加をお待ちしております。
気軽にお越し下さい。
大念寺にて開催される念仏会・瞑想会の最新情報をご覧いただけます。
令和6年度 仏教講座案内
令和6年12月14日(土)
1時30分~3時 仏教講座と体験瞑想・念仏会
(瞑想の前に、瞑想準備エクササイズがあります)
3時~3時20分 ますだ施術院院長先生のお話
講座後に施術の先生から「体と心の整え方」
仏教講座参加費 浄財箱にお布施をお入れください。
昨年は、お釈迦様の悟られた三法印(諸行無常・諸法無我・一切皆苦)など、仏教の基礎を学んでまいりました。今年度は日本独自の大乗仏教である浄土教の教えを学びたいと思います。
お釈迦様の滅後500年後の紀元前後に日本の今の仏教の原点、大乗仏教がインドで誕生し、
そして中国から日本に伝わってきます。さらに浄土教のお念仏(南無阿弥陀仏)の教えは、日本で発展いたします。
今年度は、そのお念仏について深めたいと思います。つまり、融通念仏の
お念仏とは何かを考えてまいります。
・仏道とは?
日常の私たちは、たくさん持つ豊かさ(金・財産・地位・名誉・才能など)を生きて
います。でもそれは、死ぬときは何もなくなれば、最後は不幸になります。
だからこのような人生が全てなのかを、お釈迦さまは問われました?
ご一緒に問いましょう!
2月のマインドフルネスの様子
マインドフルネス(瞑想)は、私が頑張って何かを身に付けるのではなく、他の方から行われてくるものを受け入れ、従うことです。
マインドフルネスを通して日常の行為、俺のこと中心を一旦やめましょう。
マインドフルネス(瞑想)は、思い通りになると思っていた自分の体や心は、集中しようとするけれども
自分の意志とは関係なしに勝手な思考を知ることから始まります。
瞑想しようとする自分に、邪魔するものが一杯あることに気づきましょう。
仏教講座の様子
仏教連続講座始めます
基本的に第二土曜日開催(8月はお休み)
参加費 浄財箱にお布施をお入れください。
私はお寺に入り、「行雲流水」(雲水)の如く、仏教を学ぶ師をたずね道を求めて様々なお寺をめぐりました。
30歳代は、浄土門を求め、主に親鸞聖人を学ぶために浄土真宗のお寺をめぐりました。そして40~50歳代は、禅宗のお寺で修行させていただきました。
50歳代後半は、テーラワーダ(タイやミャンマー、スリランカ)の仏教を学び、
最近は日本の大乗仏教の精神でテーラワーダの瞑想実践をされている方など学びました。30年の求道の結果、ようやく自分の道が明らかになってきました。
そこで、ようやく私の求道の道を、檀信徒の方々に説いていければと願い、
今回の講座のご案内を差し上げた次第です。
「心の闇という病気」であると言われる私たち。暗い心が明るくなる、「絶対の
幸福感」「生きてきてよかったという自分の存在の感謝」、仏教を聴くことで、必ず
今が明るい人生になります。
人生は、苦しみながら海を泳いでいるような状態です。苦しみの波(試験・いじめ・
就活・会社のノルマ・上司や家庭での人間関係・介護・老・病など)は、
いつもやってきます。
このように、あれが嫌だ、これが辛いなどという悩みや不安が次々とおそいかかっ
てくるのが私たちの人生です。そして最後は必ずどんな方も、泳ぎ疲れて、泳げ
ませんという日がきます。
お釈迦様は、35歳でお悟りになり、80歳で肉体を滅ぼすまで、45年間
お説法をされました。
何を説かれたか?それは、まさしくおぼれ苦しんでいる迷いの私たちを救助する
大きな船を教えられたのです。
その船はどんな船か?どうしたら乗れるのか?乗ったらどうなるのか?
そのような答えを求めながら、「なぜ生きるのか?」「人生の目的は?」を考えて
いきたいと思います。
私が求道した仏法を皆様に伝えるのが、私の最後の努めです。
どうかお寺にお集り願うことを切にお願い申し上げます。
*テーマ:私たちの心の本性は迷いか悟りか?
3月の会では、怒りと瞑想について考えました。
煩悩の三毒、貪り・怒り・痴ですが、怒りも他者と関係するものなので、離れにくい煩悩です。
怒りを静める方法として、身体(呼吸)から静めることを考えました
雑阿含経より、
「私は怒りを断つことで楽に眠り喜ぶ。甘美な毒の根にある怒りを断てば、
悲しみはない。」
「怒った人に対して、怒りをもって応答すれば一層の悪をなす。怒った人に
対し怒りをもって応答しないなら、困難な闘いに勝利したことになる。
他者が怒っていると知っても、しっかりと自己を静めている者は、自己と
他者、両方の益となることを行っているのである。」
お釈迦様の言葉より、怒りについて深めました。
プラーナヤーマから瞑想にとても自然に入ることができる工夫もなされ、
瞑想が深く入れる、身体の観察力が鋭くなったという感じが致しました。
また、ヨーガで身体のほぐれだけではなく、しっかり観察できれば、体の痛みというか、
緊張している身体の箇所に気づければ、心がすっきりするような感じになります。
さらに屍のポーズ(シャバーサナ)で、本当に地に自分の身体をあずけることができれば、
心身ともに楽になり、本当の安楽を感じます。
是非、ご一緒しませんか?
2月のマインドフルネスの会は、コロナ禍、寒さが厳しいなどもあり、3名の参加者で、
少々寂しい会になりました。
でも、昨年HPで見て、それ以来毎回参加してくださるAさんは、今感じている心や身体の観察、気づきが
できるようになってきたとおっしゃって下さっております。
裕美さんからは、妊婦さんのヨーガ教室での経験から、気づきの大切な話をいただきました。
妊婦さんたちの多くは、心の不安や身体の痛みを、ヨーガをすれば治ると思って参加されます。
でも、ヨーガのポーズを通して、心や身体の観察を通して、身体の細部への痛みや状態の気づき、
心の何となく不安から、何が不安かが気づけるようになることが、不安や痛みへの解消になるとおっしゃいました。
何となくから、しっかり原因がわかれば、心も身体も楽になるのです。
お念仏や、瞑想も同様と思います。 実践が何より大事です。
仏教が始まったのは、お釈迦様が三十五歳のとき、菩提樹下で悟りを開いてからで、今からおよそ二千五百年も前のことです。
悟りの契機となったのは、「瞑想」でした。お釈迦様が行われた実態は、「身心の観察」です。
「身心の観察」とは、観察の対象に「注意を振り向けて、しっかり把握する」ということです。
では、なぜ「身心の観察」という瞑想を行うのでしょうか?
日常的に感じている悩み、苦しみから、いかにして逃れるかというためです
人生には必ず「生・老・病・死」という、避けては通れない苦しみが存在するはずです。
死なない方はおられません。
心身の観察の基本は、自分の呼吸の「入る、出る」に「気づく」ものです。
日頃当たり前すぎて注意を向けない入る息出る息に、注意を振り向けるのです。
聞こえてくる音楽や音に注意を向けるのではなく、聞いていること自体に注意を向けるのです。
その訓練は、怒りを感じた時、怒りに向かうのではなく、怒っている自分に注意を向けるようになるのです。
そうすれば、怒りはすぐに爆発せず、いったん自分を見つめて、観察すれば、怒りはおさまっている方が多いはずです。
当寺で行うヨーガも同様で、必ずポーズをとったとき、鈴木裕美さんはこうおっしゃいます。
「今の身体の状態をみましょう」と。今の自分の体がどんな感じかを観察します。
念仏は集中すれば無念、思考が湧けば、気づきの観察です。
身心の観察に関しては、方法は違いますが、基本は同じです。
11月の法話では、
*瞑想中に湧き上がってくる不善な思いに対処する方法?を考えました。
『中部経典』(第二十経) 日本語の題名『考想息止経』
考想を息止することを説くお経を参考に、
① 「比丘がある主題に出会って、意を注いでいるときに、欲望や怒りや痴さを伴う、悪しき、不善な思いが起こる場合がある。比丘はその主題から離れ、善心所が起こるような別の主題に意を注ぐべきである。比丘がこの別の主題に意を注いでいるならば、欲望や怒りや痴さを伴う、悪しき、不善な思いは捨てられ、消滅していく。」(呼吸や身体を観ていく)
② 「比丘はそれらの思いの欠点をつぶさに見るべきである。本当に、これらの私の思いは不善なものである、これらの私の思いは恥ずべきものである、これらの私の思いは苦の結果をもたらすと。比丘がそれらの思いの欠点をつぶさにみるならば、」
③ 「比丘が、欲望や怒りや痴さを伴う、悪しき、不善なそれらの思いについて欠点をつぶさに見ても、まだその思いが比丘のうちに起こるならば、比丘はそれらの思いに心を遣わず、注意を払わないようにするべきである。」
④ 「それらの思いを形作る思考の形成作用を緩めるように意を注ぐべきである。」
最近の瞑想中に、昔の彼女を思い出すような不善な思考が巡ってきました。その時も無理に今の
思考を抑え込むことをしないで、お釈迦さんの説かれたように、先ずは自分へ向ける慈悲の瞑想を
致しました。そうすると自然に呼吸瞑想に戻れました。
私たちは生存欲があるので、怒りや嫉妬を無理に抑え込むことはできません。
それよりも善や慈悲の思考、行動をすることが怒りを少なくなる方向に進むと同じことだと思います。
お釈迦様の説かれた、瞑想中におこる不善な対処方法は、的を得ていると思います。
*2つの心
人には、心が2つある。大脳生理学とか、心理学が対象としている心を第1の心ということにします。この心は前頭葉に宿っている。この心は私というものを入れなければ金輪際動かない。その有様は、私は悲しい、私は嬉しい、私は愛する、私は憎む、私は意欲する。
この心のわかり方は意識を通さなければ決してわからない。
ギリシャ人や欧米人、主としてギリシャ人や欧米人を指して西洋人と云うことにしますが、西洋人は、ギリシャや欧米の文献をどんなに調べてみても、第1の心以外知ったという痕跡は見当たらない。だから西洋人は第1の心のあることしか知らないのだと思う。
ところが人にはもう1つ心がある、第2の心があります。この心は大脳頭頂葉に宿っている。この心は無私の心です。無私とはどういう意味かと云いますと、私というものを入れなくても働く。また私というものは押し込めようと思っても入らない心です。それが無私。それから、この心のわかり方は意識を通さない、直(じか)にわかる。
東洋人はほのかにではあるが、この第2の心のあることを知っています。
岡潔「数学者岡潔思想研究会」のサイトによる『二つの心』
「私の心はいつもおびえています。未来のことに対しても、今現在の状態に対しても。おびえずに生きるにはどうしたらよいでしょうか?
「悟りをめざす仏道の修練をつみ、感覚器官を制御し、一切の我欲。執着を捨て去ること。これ以外に、おびえを消し、平安を得る方法はない。」
このコロナ禍で、今の状態や未来への不安の方々がほとんどではないでしょうか?
第二の心の発動こそが、今や未来への不安をなくし、苦しみを中和させ、
さらには苦しみを消して安楽に生きるパワーがあるのです。
*最近は、マインドフルネス、瞑想に効果があると、企業研修などにも取り
入れられています。集中力が増加し、記憶力と学力を向上させる。
創造性を高め、クリエイティブな仕事を可能にさせる。
ストレスを抑制し、免疫力を高め、健康を改善する。全般的な幸福度を高める。
しかし、これはあくまでも、「わたし」の集中力、記憶力、学力、創造性であり、 「わたし」のための健康であり、幸福です。
わたしを中心に据えた「自己成就」「自己増進」にすぎません。
しかし、第二の心で行うマインドフルネス、瞑想は、慈しみの心が必ずともないます。
私たちは、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)により、外からの情報で、心があっちこっちになり、自分で自分の有り方に気づいていないのが私たちの日常です。
だからこそ自己への観察力によって、外の情報で染まっている自分の価値観を点検する必要があるのです。
「外からのおしつけの価値観にそまっているか?」を自省して、洗脳されていないか点検することが重要なのです。
そのためには、いつも思考している状態、つまり「意馬心猿」(心が、走り回る馬や騒ぎ立てる猿のように落ち着かないという意)状態を止めてみるのが、マインドフルネスの実践なのです。
私たちは赤ちゃんから我欲(おっぱいをのみたいなど)、必要なものを手に入れようとしています。我を満たすために、いろんなものを求めて生きています。
成長するごとに、周りの教育、環境などから学習して我を制御することを学び、おさえこんで、ある程度バランスをとって苦しまないようになっていきます。
自我をコントロールできる状態になることで、成人になる、社会人になるという意味なのです。でも
でも仏教徒は、社会人になるだけではいけないのです。もう一歩進んで、自分の内側の苦しみを
消すパワーが必要なのです。
社会人になりバランスをとれるようになっただけでは、何かの様々な不安や苦しみが襲いかかってきたときに対応できないのです。社会人には、苦しみの中和、さらには消し去って安楽に生きるパワーはないのです。
仏教徒にとって、社会人、成人を超えた自我をコントロールするための仏道修行ということなのです。
つまりマインドフルネスの実践が必要なのです。
仏道修行の実践こそ、第2の心を発動させます。そうすれば必ず、私たちの苦しみや不安を消し
安楽へと導いてくれることでしょう。
*ヨーガとマインドフルネス(瞑想)の関係
・最近は、お寺の催しにヨーガが取り入れられている流れになってきています。
当寺でも瞑想の前に、鈴木ゆみさんを迎えてヨーガを行っています。
でも当寺のヨーガは、瞑想の準備運動ではないことが、他の寺ヨーガと違うところなのです。
ゆみさんヨーガは、決してヨーガはヨーガ、瞑想は瞑想と別々になっていません。
つまり、瞑想の予備運動ではなく、瞑想と同質のものなのです。
瞑想の気づき「今ここに」を、ヨーガでもフルに活用されているのです。
瞑想と同じ身心の使い方と同様のヨーガなのです。
ゆみさんのヨーガは、一般的なヨーガのように何度も同じポーズをとらせることはありません。だから西洋的なストレッチと変わらないようなヨーガではありません。ストレッチ的なヨーガは、絶対に瞑想と連続はしません。
普通のヨーガでは、本来のヨーガ的な感覚器官を観るとか、エネルギー的な流れを感じるなどということを指導していることはないようです。
ゆみさんのヨーガでは、常に地からのエネルギー、つながりを身心で感じていくことをされています。
例えば、仰向けになるようなポーズでは、特に地からのエネルギーを感じていくことを常に指導されています。またどのポーズにおいても、身心の感覚器官の
観察、感じることを常に指導されています。
自己の身心の気づき、観察は、瞑想の基本です。だから当寺でのヨーガも同様のことを行っています。だから、ヨーガと瞑想が別々になっているのではなく、同質なのです。
令和3年度より、新しいプラクティスになっています。
初心者の方も、気軽に参加できるように、法話の内容も仏教や瞑想の基礎的な内容になります。
実践の念仏、瞑想などの時間も短縮いたしました。
*生きていますと、誰でも悩みや苦しみを抱えていると思います。
仏教は、苦しみは我々の中にある、心の有り方にあると考え、
苦しみの消し方、煩悩より起こる苦しみのため煩悩の消し方として
瞑想、マインドフルネスを通して、心を観察していこうという訳です。
マインドフルネス(瞑想)をして、それが自分の人生なり生活に実際のところ何をもたらしているのかを
考えたいと思います。
だから、家族との関係とか、職場での人間関係とか、あるいは自分の内心のありようをわだかまりなく
振り返ってみたときに何がみえてくるのか?マインドフルネス(瞑想)をやることが一体何をもたらしているのかを
考えたいと思います。
瞑想をして、「オレは特別なんだ」といった、ナルシズムになり、家庭不和になって言い争いが増えて
しまっていては、やはりどこか取り組みがおかしいということでしょう。
マインドフルネス(瞑想)が開いてくれる世界に、不健全なところや偏りがあるのもおかしいでしょうし。
一緒に問いませんか?
*マインドフルネスの呼吸法を考える
毎月のマインドフルネスでは、意識的にコントロールする呼吸法として、ヨーガで行われているスクハ・ブルバク(片鼻呼吸)やカパラ・バティ(お腹を瞬間的にキュッと小さく引き締めることで鼻から吐く)などを行っています。
コントロールする呼吸を用いて、自然呼吸をさらにアップデートするのです。
つまり普通の呼吸とコントロールする呼吸を超越したものにするのです。
それが、マインドフルネスという気付きの呼吸なのです。
超越した呼吸とは、ティク・ナット・ハン師の呼吸瞑想法より紹介いたします。
「息をするために特別な努力をしてはいけません。自分が自然に息を吸うのを許すだけでいいのです。たとえあなたが息を吸おうとしなくても、息は自分自身で吸う息を始めます。 ですから、息よ、わたしがこうしろと言う通りに入って来いなどと言う必要はありません。なにも息を強要してはいけません。息に干渉してはいけません。息が起こるままにしておくのです。あなたがしなければいけないことは、息が今起きているいるという事実に気が付いているということです。そうすれば息を楽しむことができます。息と格闘してはいけません。息というものが驚異そのものだということを識ってください。もしあなたが息を楽しむことができないというなら、それはどこかが間違っているのです。
入息が起きているとき、わたしはそれが入息であることを知っている。
出息が起きているとき、わたしはそれが出息だと知っている。
入息と出息があるという事実を単純に識る、それだけです。
もしそれができたなら、あなたは完全にそこに現存しています。
これは奇跡に他なりません。
では、数分間自然に息をしながら入る息、出る息にあわせて心の中で、入るー出ると唱えてください。
しばらくそうしてから次は、入息、わたしはそれが深くなったと知っている。
出息、わたしはそれがゆっくりなったと知っている。
これを簡略化して、深いーゆっくりとして、呼吸の出入に合わせて心の中で唱えます。
息をコントロールして深く吸い込もうとしたり、ゆっくり吐こうと努力する必要はありません。息はそれ自身で自然に深くゆっくりとしたものになっていくからです。
その事実を識るだけでいいのです。
しばらくそうしてから今度は、入息、わたしは自分が静まっていると感じる。
出息、わたしは安らかであると感じる。これを簡略化して、静かー安らかとし、
しばらくの間、息に合わせて心の中で唱えます。
こういう言葉は自己暗示ではなく、そういう事実の確認なのです。
次に入息、わたしは微笑む。出息、わたしはすべての思い煩いを手放す。
微笑むー手放すをしばらく息とともに行じます。
そして最後に、入息、わたしは今この瞬間に安住している。出息、わたしは今が素晴らしい瞬間だと知っている。
今の瞬間―素晴らしい瞬間と息に合わせて唱えてください。
『生きる上での苦悩の解決こそが仏の教え』
この世に生まれるということは、苦しみだと仏教では考えています。では、なぜ生きることの本質は苦なのでしょうか?
老いや病気や死といった根本的な問題は思い通りにならないからです。
また、人間関係だって思い通りにならないのではないでしょうか?
これらはこの世に生まれた限り避けることのできない苦悩です。
苦悩の原因は何か?それは、「執着」です。
執着が強ければ強いほど、思い通りにならない苦しみが強くなります。
だからこそ宗教体験によって、心と身体をトレーニングすることが必要になります。
そして、自分というものに対して執着せず、自分以外のものにも執着しないことを目指します。
その宗教体験(修行方法)の最も大切なものとしては、自らの行為や思考を注意深く点検するという【念】があります。
「念」には四つの項目、つまり「身」「受」「心」「法」があり、「四念処」と呼ばれています。
「身」は自分の「身体」に関する気づき、瞑想を通してしっかりと今、身体に何が起こっていることを
観察します。
「受」は、感受作用、外界と自分の接触点、外からやってくるもの(音や感触)を観察します。
「心」は、自分の内面、今の思考の気づき、「法」は、この存在を構成するさまざまな要素への
気づきです。
つまり、心臓等は寝ていても動いています。呼吸だってしようと思ってしなくても自然にしています。
空気や重力、いろんなおかげで生かされていることへの気づきになります。
この宗教体験(修行法)こそが、お寺で行っている「マインドフルネス」です。
コントロールする世間ばかりのモードから世間から少し離れたモードも持って頂きたいと
いう思いからです。
一生懸命、お念仏や瞑想(坐禅)してもなかなかうまくいかない、つまり思考から離れられず、
今心や身体でおこっていることに集中できないのです。
また無念にもなれないのです。
なぜなら、そこには自分がという、オレが念仏する、オレが瞑想というものがあるからです。
でもお念仏や瞑想を続けていると、ふと我を離れる瞬間を感じることがあるのです。
「はからい」、自分の思い通りしたいという執着から離れる瞬間を身体で感じる瞬間が
あるのです。
その時は、なぜか凄く爽やかな、楽になったような気持ちになるのです。
身体の変化を感じる体験は人それぞれでしょう。
手や体のビリビリ、体中が熱くなる。幻覚を作り出す。宇宙と一体となり光が体に満ちあふれる、
体が透明になって風がふきぬけていったり、魂が抜けて別世界にいったりなどと。
いわゆる神秘体験かもしれません。でもあくまで体験であって、悟りや涅槃のような凄いもの
と勘違いしてはいけません。
この「はからい」という執着から解放された時、日常の我も和らぎます。意地をはったり、
いこじになったりという思いが少なくなり、生きやすくなります。
そして先はどうすれば楽になるかという智慧にも繋がります。私の経験では、親子関係は、
てき面に効果がありました。
お念仏も瞑想(坐禅)も、自分がコントロールする力ではなく、他力によってうまくいくのです。
我の心で、お念仏や瞑想しても何にも起こらないし変りません。
思考を停止し、言葉を停止すれば、考えるモードから感じるモードになります。
意識が受動的になればなるほど、身体は能動的になり、心と身体に今おこっていることだけに
気づくでしょう。
その時にこそ、生かされて生きているという働きが身体中にみなぎることでしょう。
その働きの力こそ仏、「今ここで生々しく働いている大自然の働き。自分を今生かして、
宇宙も動かしている、人智を超えた人間の智恵の中には絶対に収めきれない
無限で精妙な働き。」を心身で感じることでしょう。
小さなお葬式:家族葬なら、お寺の本堂で
セレモニー中心から、信仰のあるお寺中心のお葬式を考えませんか?
ご本尊を中心にしたお葬儀を考えませんか?
大切な方を、厳かなお寺の本堂で送ってあげません
詳しくはお寺まで
「家族葬ならお寺の方がありがたいのでは」という声を頂き、企画したプランです。
*今後のご遺族、次の世代への信仰のつながりの一助になり、お寺との
関係が深まることを願っております。
*セレモニー中心でなく、仏教儀式と信仰を中心にした寺主導のお葬式をします。
よって引導や葬儀で唱えるお経の意味をきちんと理解したお葬式になります。
*祭壇もお寺の本堂の荘厳でおこないます。亡くなった方中心のお飾りです。
そのため、葬儀費用も安くなります。
もちろん会場費も葬儀会場より安価で提供しています。